階段


304号室 ...01

 大きくなりたい、彼女を包みこめるくらいに。
 それまでは望まないつもりだったのに……もう、止まらない。



「ヒトミちゃん帰ろうっ! 今日は部活ないんだってさ」
 帰る準備をしていたところに、飛び込むようにして教室に入ってきた颯大は、真っ直ぐにヒトミのもとへと走ってくる。
 クラスメイトに『可愛い彼氏が迎えに来たわよ〜』なんてひやかされても、周りに認めてもらえているようでちょっと嬉しくなってしまうのは、やはり終業式のあの日に一悶着あったからだろうか。
「じゃあどこかに寄って帰る? 颯大クンに任せるよ」
 荷物を詰め終わったカバンを抱えて返事をすると、颯大は自分のトレードマークであるサンバイザーを右手で少し上げて、窓の方を見た。
 まだ梅雨入りしていないものの、それも間近のこの季節。その上今日は、いつ雨が降ってもおかしくない曇り空。
「うーん……今日は制服デートはやめたほうがいいかも。コンビニでお菓子買って、ボクの部屋で話そうよ」
 颯大がちらりと下から覗き込むと、ヒトミはにっこりと微笑んでいて、少しその反応にため息が出そうになった。
(少し前なら、とても嬉しかったはずなのにな)
 もちろん今だって、嫌なわけじゃない。
 大好きな彼女と一緒にいられるのに、嬉しくない彼氏なんてこの世にいるわけがないのだから。
 ではなぜ、気落ちしているかと言うと……。
「颯大クンはどこのコンビニ寄りたい? コンビニによって、意外と違うんだよね」
 クスクスと笑う笑顔、楽しみにしてくれている会話。
 何も文句などないのではと思えるこの光景が、颯大に少しの不満を与えていた。
 『先輩と後輩』という間柄から、晴れて恋人同士になったけれど、まだヒトミより目線も低く年下なのが気になる颯大は『ヒトミ先輩』からヒトミちゃんと呼び名を変えてみた。
 なのに、ヒトミは『颯大クン』のままだ。
 ……この際、呼び名は二の次として、1番の不服な理由は何にも考えていなさそうなこの笑顔。
 ヒトミがダイエットに励んでいる頃、部屋へ遊びに来たときに聞いたことがある。
 『ドキドキする?』と聞いたら、頬をほんのり赤らめて返事を返してくれた。
 そのときは、自分を男として見てもらえていると思ったし、聞かなくてもたまに顔や態度に出ているときがあって嬉しかったのだ。
 なのに、最近ではそんな様子も見せない。
「……颯大クン?」
 相づちもそこそこな颯大が気になったヒトミにじっと見つめ返されれば、一瞬だけ下を向いてすぐに笑ってみせた。
「ごめんね、映画館の近くにあるコンビニは最近行ってないなって思って」
「しばらくはもつと思うから、早めに行っちゃおうか。私も久しぶりに見てみたいし」
 雨が降らないうちに買い物を終わらそうとでも言うように、小走りに廊下へと出る。
「おいてっちゃうよー!」
 今まではそれで満足だった笑顔。
 何かの話で聞いたことはあったけど、付き合いだして3ヶ月目って色んな思いが交差するというのは本当らしい。
 『後輩の颯大クン』ではなくなったのだろうけど、こうなったら少しは行動に出るしかない。
 いつまでも『可愛い颯大クン』ではいられないんだと……それを伝えるのは、背が伸びるまでと決めていたけれど。
 あまりに自分を意識していない気がするヒトミに痺れを切らして、何かを企んだ顔で颯大は後をついていった。



 マンションへの帰り道とは逆方向、映画館の方を目指して歩き出す。
 他愛ない学校での話題、昨日のテレビ……何を話していたって楽しいし、話題はつきることはない。
 けれど、何かが足りない気がする。
 その漠然とした何かに寂しい思いが込み上げて、つい立ち止まりそうになっていると、先にヒトミが立ち止まった。
 顔をあげると、正面の横断歩道の信号は赤を告げている。左右から車が走り出して、颯大はバスが横切るのを見計らって呟いた。
「……ヒトミは、本当に俺が好き?」
 近づいたはずなのに、変わらない距離。
 話す話題も、遊びに行く場所も何も変わらない。それどころか、照れることもなく安心しきった表情で笑ってる。
(もっとドキドキしてほしいのに――!)
「今、何か言った?」
 騒音にかき消された一言は聞こえるわけもなくて、振り返るヒトミに抱きついた。
「ヒトミちゃんが大好きだよって!」
 浮かべるのは満面の笑顔。こういうときは、演劇部に入っていて本当に良かったと思う。
 ……同じように、偽っているんだろうか。
 微笑を浮かべて返事のように頭を撫で返すヒトミが、照れ隠しでそうしているならいいのに。
「あ、信号変わったよ」
 それでも、そのそっけない態度が、いつか自分を置いて去って行きそうで……歩きだすために身体をよじって腕から逃れようとするヒトミを、強く抱きしめた。
「手、繋いでもいい? じゃないと離れないよっ」
 いたずらっぽく笑う颯大に苦笑するヒトミ。
 その『しょうがないな』という顔が、たった1つの年の差を大きな物へと変えて、いつまでも彼女の中にある自分を壊せない。
 背にまわした腕を掴まれ、手を握っておろされると、優しく咎めるように目線を合わせてきた。
「早くしないと、本当に雨降ってきちゃうよ?」
 そんな気はないのかもしれないけれど、自分のわがままを呆れてるんじゃないかと思う。
 ……弟扱いな気がする。
 悔しくて、そっと触れるだけのキスをして。
 繋いだ手を強く握り返して走り出した。
(壊したくないんだ、本当は)
 壊してしまえば、傍にいれない気がして……彼女が好きなのは、弟のような存在の自分だと認めざるをえなくて。
 男らしく振舞ってしまったら、もうこうして隣には並べないかもしれないと抑えていた思い。
 それでもぶつけてしまうと決めた颯大は、そのままヒトミの手を引いて路地裏へとかけこんだ。
 当然、痩せたとはいえスポーツ万能の颯大の足に楽々ついていけるわけもなくて、必死にヒトミはついていくが、息があがってきている。
「そ……た、クンっ! ちょっと、ま……」
 住宅街の中の細くて狭い階段。数段あがって、颯大がやっと立ち止まった。
 その差は、段差1つ分。文化祭のときより、少しだけ背が伸びたから。
「……すぐに、大きくなるんだよ」
 息を整えているヒトミには、今ひとつ何を言いたいのかわからなくて黙って聞いている。
「ヒトミちゃんにとっては、ボクは……可愛いのかもしれないし、弟みたいな存在かもしれないけど! いつまでもこのままじゃない。すぐに背だって大きくなるし、身体だってもっとしっかりしてくる。わかってる?」
「…………っ」
 真剣な目で射抜かれて、言葉につまる。
 子供扱いなんてしていないと、即答できないでいたのは、かわいらしい颯大も好きだと思っているからだ。
 視線を落とすヒトミの肩を引き寄せて、顎を掴み上げて無理やり視線を合わさせた。
「ヒトミ……は、俺が小さいから好きなの? 大きくなっちゃいけないの?」
「ちが……っん」
 答えなど待ちきれなくて、何かを言おうとしたその唇を塞ぐ。
 互いの瞳は開かれたまま、颯大の舌はヒトミの開きかけていた唇に割り込んで咥内を彷徨った。
 キスなんて触れる程度を数えるほどしかしていないから、これでいいのかもわからないけれど。
 自分を感じてほしくて、精一杯の気持ちをこめて抱きしめると、苦しそうな声があがる。
 恥ずかしげに閉じられた目と上気した頬を見て、ゆっくりと唇を離した。
「……ヒトミちゃんには可愛く見えても、ボクだって男なんだよ」
 真剣な眼差しと深い口付けをしていた証拠のように光る口元。赤くなった頬は、熱が下がりそうにもなくて。
 視線をそらしたいのに、そらせない。
 ――ザァッ!
 小雨という予告もなく、一気に降り注いできた雨が今までの空気を洗い流すかのようだった。
「うわぁっ!? ヒトミちゃんこっち!」
 雨宿りが出来るような木も何もない場所に立ち止まっているわけにもいかず、誘導されるままに走り出す。
 そうして駆け込んだ先は、屋根付きの駐車場だった。
 そう遠くない場所にあったけれど、バケツをひっくり返したとでも言えそうな土砂降りの雨に全身ずぶ濡れとなってしまい、水を吸って重くなったカバンを置きながら中身の心配をする。
「ほらっ! これで体ふきなよ」
 2本あるからと手渡されたのはスポーツタオル。
 さすがにこのままでは風邪を引きかねないので、素直に受け取ることにした。
「……っくしゅん」
 くしゃみのあと、ふわりとタオルが頭に被さる。
 トレードマークを取り、濡れて落ち着いた髪が別人のように見える颯大が、心配そうに覗き込んでいた。
「……寒い?」
 そのまま優しく拭き始める彼に少し甘えつつ、持ち前の明るさで笑ってみせた。
「少しは寒いけど、平気だよ。でも……帰ったらシャワー浴びないと風邪ひいちゃうかもね」
 そう言って空を仰ぐが、夕立というレベルのものではないらしい雨雲は、一向に消える気配を見せない。いざとなれば、お兄ちゃんに迎えを頼めば……などと気楽なことを考えていたら、颯大が寄りかかってきた。
「ボクは、ちょっと寒いかな……」
「えぇ!? ど、どうしよう。入れそうなお店もこの辺りはなさそうだし……」
 見回してから、表通りではないことに気づく。
 そして、雨で視界が悪いため、ちゃんと探せそうにないのも原因だ。
 駐車場なんかじゃなくて、もっと暖の取れる場所へ移動しなければ――
「あっ! この駐車場って、お店の駐車場じゃないの?」
 大きくため息をついて、半乾きの髪を書き上げると、颯大はヒトミから少し離れて壁へ寄りかかって座りなおす。
「そういうのはさ、場所わかってからいいなよね」
「え?」
(……まぁ、雨で駆け込んだだけだから、気づかなくても仕方ないんだけどさ)
 睨む様に空を見上げ、失敗したなと呟く颯大の意図がわからず、駐車場の入り口付近にある看板をよく見てみる。
 よく見て、雨のせいで読み間違えたかと再度確認して。何度確認しても、信じがたい場所の駐車場にいるのだと理解した。
 所謂、ラブホテルという場所だ。
 息を呑むように固まったヒトミを見て、イタズラっぽく笑ってみせると、颯大は座ったまま手を伸ばし、立っている彼女の手を掴み、その指先へと口付けた。
「ヒトミちゃんが入ろうっていうなら入ろっか?」
 今のところ、そういう欲求はゼロに近い。
 だからこれは、少しばかりの冗談で……真っ赤になって、慌てふためくヒトミが見たいだけのイタズラだ。
 正直に言えば、場所にもそういう行為にもそれ相応に興味はある。同じ年頃の男子で、ないヤツはいるのかと主張したいくらいに。
 でも今はまだ。恥ずかしそうに笑う顔を見れれば十分だから。どんなきっかけで関係が深くなるのかはわからないけれど、それはまだ、先でいいと――
「……いっ、いいよ」
 思っていた矢先に、予想外の発言。思わず自分の耳を疑って顔をあげると、すぐさま視線をそらされて。
 僅かに染まった耳だけが、ヒトミの様子を知る手がかりだった。
「このままじゃ、2人とも風邪引いちゃうかもしれないし、その、雨も止みそうにないし、それに、あの……」
 立ち上がって、勢いでまくしたてるヒトミを後ろから抱きしめると、目の前にある赤い耳へ囁きかける。
「本当に、いいの?」
 1人暮らしの自分の部屋に遊びに来るのとは、ちょっと心構えも違うんじゃないだろうか。  赤い耳へギリギリまで唇を寄せ、なぞる様に首筋へと唇をおろしてみる。
(……なにが、ゼロに近いんだか)
 自嘲しながらも、腕から伝わる心音が心地良い。互いに高鳴っているのがわかるから。
「あ、あんまり聞くと、考え直しちゃうからねっ!」
「……じゃあ、もう聞かない」



 久しぶりにみた照れた顔が可愛くて、意識してもらえたことが嬉しくて。
 もっと抱きしめたいんだ、雨宿りが理由でも構わないから。
 ――一緒にいよう?



「じゃあヒトミちゃん、シャワー浴びてきたら?」
 はい、と颯大が笑顔で部屋に用意されているタオルと浴衣のような着替えを手渡すと、ヒトミはつい裏返った声で返事をしてしまう。
 良いと言ってしまった手前、後には引けないというような様子で唾を飲み込むと、ゆっくりと荷物を受け取った。
「せっかく雨宿りで寄ったのに、風邪ひいたら意味ないもんね」
「雨宿……そ、そうだね! うん! じゃあ先に使うね」
 いそいで浴室へと向かったヒトミを見届けて、颯大は濡れたシャツをハンガーにかけて苦笑をもらす。
「……ボクが寒いって言ったから、入ろうっていう話になったの、忘れてるや」
 可愛いなぁと呟いて、イスに腰をかけると、次はどんなことを言ってみようかと思考をめぐらせた。
『雨宿りで寄ったのに』
 これは、本音。
 照れてるヒトミが見たくてやってみたイタズラなのには変わりない。そして、行為のために作られたこの部屋で、したいとも思わない。
 あの顔がもっと見たい。けれど、見ていたら考えが変わってしまいそうで。
 あの言葉は自分に言い聞かすように言ったのだ、変な気など起こさないようにと。
(あれ、この光……どこから差し込んでるんだろ?)
 ふと、俯き加減の視線がとらえた光。
 どこから差し込んでいるのかと先を辿れば……。
「ヒトミ、ちゃん……?」
 ガラス張りではなかったはずのその壁の仕掛けはよくわからないが、浴室の全てがこちら側から見えていた。
 普段とは違う下ろした髪と、努力の結果の細い身体。
 お湯のせいか照れが残っているのか、未だ軽く染まった頬も。
(…………っ)
 見惚れていた。ただ素直に綺麗だと思い、浅ましい思いなど抱いてはならないと思った。
 なのに、やっぱり内側からは別の物が沸いてくる。男としての本能か、それが自分の本心なのか……恋人同士なのだから、悪いことではないはずだけど。
「決めたんだ、もう決めたんだ……!」
 可愛いって思われたくない、もっと傍にいたい、離れないように繋がっていたい。
(ただ、それだけなのに――)
 結局は自分勝手なだけ。
 この境界線を、自分から越えようとしなかっただけなんだ。
(ねぇ、ヒトミちゃん。ボクから境界線を飛び越えようって手を伸ばしたら、その手はとってくれる?)



「お風呂空いたよ、颯大クンも温まってく……!?」
 出てきたところを抱きつかれ、驚いたヒトミは少しよろけるが、しっかりと颯大が支えていたため転ばずにすんだ。
 だが、次の瞬間には視界が変わり、足には浮遊感。
「1度、やってみたかったんだよね」
 微笑む彼にされているのは、紛れもないお姫様抱っこと呼ばれるもの。そのままベッドへと運ばれて、ゆっくりおろされると少し上から見つめられて、恥ずかしくなって目を伏せるヒトミに優しく口付ける。
「好きだよ。ヒトミちゃんが何より大切で……大好き」
 優しく、何度も口付けて、背中を支えながら寝かしつけると、少しだけ潤む瞳に見上げられる。
 そして、本当に心の底から幸せそうに微笑んで、ヒトミは小さく言葉を口にした。
「私も、颯大クンが好きだよ」
 ほら、それだけでもう幸せじゃないか。
 愛おしそうに目を細めて、優しく頬を撫でると、少しくすぐったいような空気に微笑んでしまう。
 けれど――。
「ねぇ、雨宿りだけがいい?」
 臆病だから、踏み切れなかった。
 傷つけたくなくて、でも確かな繋がりがほしくて。
 言葉より確かなものは、もうこれしか思いつかなくて。
 こうすることが大人だとは言わないけれど、今までよりも、もっと――。
「ヒトミちゃんと……したいな」
 視線をそらさずにそう言うと、暫し間があってヒトミは小さく頷いた。赤みが差した頬に軽くキスをして、力強く抱きしめる。
「……ありがとう」
 もう少し大人になれたとき、後悔するのだろうか。
 寂しさとワガママを理由にして繋がりを持ったことに。
 例え自己嫌悪したとしても、彼女がならないのならいい。優しいヒトミが、それに気づいて受け入れたのでなければいいんだ。
 会えない時間は寂しくて、夜はもっと人恋しくて。そんなことを忘れるくらいに温めて欲しい。
(その温もりに、溺れさせてほしいんだ)
 そんな思いを胸に秘め、颯大はゆっくりと確認するように、ヒトミの顔中にキスを落とす。
 そして、彼女の唇がきつく閉ざされて、表情も恥ずかしがっているのではなく、どことなく強張っていることに気付いた。
「ヒトミちゃん……」
 自分には彼女の緊張をといてやる手段も思いつかなくて、やっぱり無力な子供なんだと現実を突きつけられた気がした。
「だ、大丈夫だよ?」
「……嘘つくの、ヘタなんだから」
 ぎゅっと彼女を抱き締めれば、伝わる鼓動が心地いい。
 怖がらせてまで手に入れたいものなんて、最初からなかったんだ。
「あ、の……颯大クン?」
「ヒトミちゃんがあったかいから、眠くなっちゃった」
「え? えぇっ!?」
 甘えるように首筋へ顔を埋めて颯大が言うものだから、ヒトミも拍子抜けしてしまう。
 意を決して返事をしたのに、こんな展開になるとは思わなかったのだろう。
「じゃあ……少しだけお昼寝しようか」
 きっとまだ、外は雨が降り続いているんだろう。
 そして、もう暫くは『可愛い颯大クン』でいることになるかもしれない。
(焦ったって、しょうがないよね。これからずっと、一緒なんだから)
 長い長い階段は、2段3段と飛ばして駆け上りたいけれど。
 大好きな彼女と手を繋いで、のんびり登るのも悪くないかもしれない。
 颯大は強くヒトミを抱き締めて、そんな風に思うのだった。

- end -