ドッグイア


椎名×由奈 ...01

 長い夏休みが終わって、やっと残暑も落ち着いてきた頃。
 話しかけられれば返事もするし誘われれば遊びにも行くけれど、私は自分から行動する気力が無くて放課後の今も一人で屋上にいる。
 とっくに蝉の声なんて聞こえなくなって、夜には薄い上着が欲しくなるほど冷えるときだってあるのに、心は未だ夏……というよりも、臨海学校から帰って来れないかのように移り変わる季節についていくことが出来なかった。
 ため息が増える私を心配して声をかけてくれる友達は『もう1度あの海に行ってみる?』と言ってくれたけど、かき入れ時でもなければ目当ての人だって手伝いには来ていないだろう。
 彼の身内が経営しているとは聞いていたけれど、私が顔を合わせたのはたった3日。その場にいれば引き合わせてくれるかもしれないけれど、連絡先を教えて貰えるほど親密な仲とは到底言えない。
 その証拠に、彼自身からもらった餞別の品は一冊の本。メールアドレスを書いた手紙の一つも挟んでなくて、当たり前のことなんだろうけれど少し寂しかった。
(……椎名くん、今頃どうしてるのかな)
 空を見上げることが多くなっていた私は、その青さが薄くなっていくのと同じように思い出も薄れてしまうのだろうかと、ぼんやり眺めた。
 出来るだけ忘れないようにしてくれるって約束したけれど、あれだけ忙しく働いて勉強もしてだと、私のことなんてすぐに忘れられてしまいそう。ひと夏の恋だって思えば良いのかもしれないけれど、そうやって割り切るには難しいくらい椎名くんはたくさんのものを残していった。
 風が吹き、膝の上に乗せたままとなっていた本のページが捲れる。
 これとは別に、私の部屋には似合わないくらい立派な装丁の『今国会にて成立した法律についての研究』という本もそうだ。
 別れ際の本とは違い、椎名くんから買ったもの。あんなに難しい本を読むんだ、高校だってレベルの高いところへ行くだろうし大学だって私が行けるようなところでは会えないかもしれない。
 わかっているからこそ、大して読み進めることも出来ないこの本を本棚にしまっておくことは出来なかった。
 大事な思い出としてしまい込む前に、もう少しだけでも夢じゃなかったことを実感したい。だから多少荷物になったとしても、痛まないようにブックカバーをつけて持ち歩くことは習慣になっていて、毎日のようにここで読み進めている。
 その度に彼のことが脳裏を過ぎり、結局は手を止めてしまうから一度も最後まで読めたことはない。
「はぁ、そろそろ帰らなきゃ……あれ?」
 青い空もオレンジ色に変わり、文字が見えにくくなってきた。いつまでも読書を言い訳に居座るわけにはいかないと本を鞄にしまいかけたとき、風によって捲れた新しいページの角が折れていることに気付いた。
 読書が趣味だと言っていた椎名くんが折るとも思えず、私は乱雑に取り扱った覚えがないものの懸命にその皺を伸ばす。けれど、気になってよくよく見れば、折れているのはこのページだけではなかった。
「そんなぁ、いつ折れちゃってたんだろ……大事なものなのにー」
 そうやって2つ目の折り目を正す頃、その不自然なくらい綺麗な三角形に折られた角に疑問がわいた。
 もし勝手に出来た折り目ならば、こうも整った形は続かない。方向こそ左右バラバラになっているけれど、キッチリと折られたそれは栞変わりに折られているようにも見える。
(直してなかったのは、お気に入りのページを知らせるため……とか?)
 そう思って読んでみても、とくに印象に残るようなことは無い。やっぱり気のせいかと次の折り目に向かおうとして、折られていたそのページの異変にやっと気付いた。
 80ページ目のはずなのに、ノンブルにはシャープペンシルで一文字書き足されて『080』となっている。見覚えのある数字の並びに、私は正してしまったページへ急いで戻った。
 2桁の数字のページには本文にあった3という漢数字の隣に黒い点、それから3桁のページは2カ所折れていて、うち1つは100の桁にある1を丸で囲んでいる。
 080と8桁の数字。並び方のヒントまで書かれていれば、これは間違いなく電話番号に違いない。
(椎名くんと、また話せるかもしれない!)
 大慌てで携帯を取り出し、指示通りに数字を入力していく。緊張で震える指でボタンを押す度に、彼との距離が近づいてくる気がして息が詰まりそうだ。
 もし間違えていたらという不安と、繋がったとして何を話そうという迷いでなかなか発信ボタンが押せない。だけど、このまま待っていても椎名くんから連絡が来ることなんて無いし、今度こそ何も伝えないまま後悔したくない。
 勢いに任せて、発信ボタンを押す。
 けれど、私を迎えたのは年の割に落ち着いたような声でも少し生意気な口調でもなく、無機質な機械音――留守番電話だった。
「え、あ……椎名くんの電話ですか? あの、セントルイスの由奈です。臨海学校でお世話になった。えっと…………」
 知らない番号から着信があるなど不審に思われるかもしれないと、とりあえず自己紹介をしてみたけれど、喋ることをまとめておかなかったせいで録音時間が足りず、途中で終わってしまった。
 かけ直してきちんと用件を伝えるべきか、と思っても重大な用件があったわけじゃない。ただ元気にしているのか、時間があるなら少し話せないかと思っただけだし、そもそもこの番号が彼のものであるという確証もない。
 また日を改めてかけ直そうと、私はため息とともに立ち上がりとぼとぼと下校することにした。
 
 
 
 週末、私は部屋に籠もって携帯画面に映る文字と本の数字を見比べ、打ち間違いが無いことを何度も確認していた。
 あの留守電を聞いてくれてないのか間違い電話となってしまったのか、椎名くんから折り返しの連絡は無い。そもそも、お金には少しシビアな面があるから、電話代をかけてまで連絡をしてくれるとは期待してないんだけれど。
 だからこそ、ワン切りだけでもしてくれたらすぐにかけ直すのに、とディスプレイを見る。
 ちょうど昼時を知らせる時計が表示されるだけで、着信はない。もちろんメールなんて届きようがない。
 休日の今日なら電話に出てくれるか、それとも休日だからこそバイトが忙しくて出られないのか。期待と不安が混ざり合って、もう一度かけ直す勇気もなく机に突っ伏してしまう。
(次も出てくれなかったら……私の勘違いだと思って諦めようかな)
 なんの反応も無いと言うことは、きっとそういうことだ。だけど、かけ直さなければ現実を突きつけられないまま夢を見続けることは出来る。
 どうしたものかと突っ伏したまま携帯を突いていると、私のため息を掻き消すように携帯が鳴った。
「……もしもし?」
 申谷さんが遊びにでも誘ってくれるのかな。大した期待もせず出た電話の向こうでは、盛大なため息の音が聞こえる。
「あのね、俺が金かけてまで連絡してるんだから、その第一声は無いんじゃない?」
「えっ? その声、まさか――」
「あんたがかけてきたんだろ。続きは後で話すから、とりあえず駅ね。5分で来て」
 言うだけ言ってプツリと途切れた電話に、私は呆然とするしか無かった。
 名前も言わないで人を呼び出すなんて勝手過ぎる。だけど、ずっと聞きたかった声と思ってた通りに電話料金を気にする態度に、あの番号は間違いなく椎名くんのものだったんだと確信出来た。
「――って、駅にいるって言った? 閏が丘の? どこのっ!?」
 5分でなんて無理難題を押しつけられて、服を選び直している時間もない。簡単に身だしなみを整えて、財布と携帯だけ持ってとにかく走った。
 体育の授業でだって、こんなにも真剣に走ったことは無いかもしれないってくらいにスピードを上げ、最寄り駅を目指す。誰もいなければ電話をかけて、椎名くんのいる駅まで行かなければ。
 そう思うのに、準備運動もせずいきなり猛ダッシュした私の呼吸は浅いままで、周りを見回すこともままならない。痛いくらいに早く打つ心臓を押さえるように前屈みになって、あのクセのある黒髪を探す。
「そんなに息あげて、運動不足じゃないの? 俺をこんなに待たせたんだから、当然昼は奢ってくれるんだよね」
「し、いな……くん?」
 フラフラとした足取りの私に声をかけたのは、紛れもなく臨海学校で出会った椎名くんだ。けれど、こんな所にいるだなんて実感が持てなくて、つい疑問形で名前を呼んでしまう。
「他の誰に見えるって言うの。ま、中々連絡もないから俺のことなんか忘れて本も売りに出されたかと思ってたけど」
 少し呆れたような顔をするけれど、その片目は閉じられたまま。いつかあの暗号を私が解くって信じてくれていたんだ。
 読み終えてしまったら、あの本をしまい込まなければならない気がしていたのに。本当は読み進めなければ椎名くんに会えなかっただなんて、どれだけの時間を無駄にしてしまったんだろう。
「忘れないよ、忘れられない……私にとって椎名くんは、あの夏だけにしておきたくないから」
「へぇ、意見が合うね。そうでもないと、5時間もかけてやってきた意味無いか」
 ポンと叩いた自転車のサドルのほうへ視線を移しているうちに頬を掠めるよう口づけられ、さっきまでとは違う意味で鼓動が加速する。
 留守電を残しただけなのに、自転車に乗って会いに来てくれた。それはみんなが言った通り、椎名くんが私を好きだから? それとも、たまたまこの近くで用事があって私をからかいに来ただけ?
 ぐるぐると頭を駆け巡る内容がまとまらなくて、私はじっと椎名くんを見つめる。
「と、とりあえず、どこかお店入ろっか。疲れてるだろうし、お腹も空いてるんだよね?」
「昼を奢られるくらいじゃ割に合わない程度には疲れてるね」
「もう、相変わらずなんだから……いくらになりそう?」
 一休みしたら、この近くで一番大きな本屋に行って何かプレゼントすれば機嫌も良くなるだろうか。それとも、どこか遊べるような場所のほうが喜ぶだろうか。
 自然に囲まれたところでは遊んだから、少し都会的な所で遊ぶのも良いかも知れないと行き先を考えていると、椎名くんは口元を緩めた気がした。
「じゃあ……由奈でいいよ」
 3度目になるキスは唇に落とされて、私は目を瞬かせるしかない。
「俺の愛は結構高いから、由奈の一生をかけて払ってよ。分割で良いなんて、結構良心的だと思うけど?」
「それって、私が好き……ってこと?」
「今は危機的状況でもなんでも無いのに、言わなきゃわかんないわけ? 年上ならそれくらい察しなよ」
 自信満々に言い放つ椎名くんは、私に背を向けて自転車を押しながら歩き出す。視線は昼時でオープン席まで埋まってしまった飲食店を眺めていて、私からの返事なんて聞こうともしない。
「待ってよ! 私、椎名くんに何も言ってないのに」
「なにを? キス、するのは好きな人だけなんでしょ。他に言いたいことでもある? そんなことより腹減ってるんだけど」
 トントンと自分の唇を指す仕草にさっきのキスを思い出して、また頬は熱くなる。言い返せなくて黙り込んでしまう私を見て、椎名くんは片目を閉じて「置いてくよ」なんて言いながら再び歩き出してしまった。
(か、可愛くない……っ!)
 だけど、そんなところも含めて気になって……好きになったんだ。こうして振り回されるのも、悪くないかもしれない。
 ゆっくりと歩いていた椎名くんに追いつけるように歩幅を大きく踏み出して、腕を絡めてみる。傾いた自転車にムッとした顔を見せるけど、ため息を吐いたあとは片目を瞑るんだ。
「あのね、見てわかんない? 自転車押すのにすっごく邪魔なんだけど」
「でも嫌じゃないんだよね? 椎名くんのこと、大好きだよ!」
「……あっそ」
 興味なさそうに正面を向くけれど、腕を振り払うことなくこのままでいてくれる。
 優しく頬を撫でる秋の風に、ようやく私の時間は夏から動き出せそうな気がした。
 これからは、二人で。

- end -

2011-08-18

クリアしたよ!っていう喜びと勢いで。

clap

浅野 悠希